ソーシャル・ビジネスや社会的起業と言われる世界では、
これまで企業が当然のように追い求めてきた「利益」が敵視される
ような傾向があります。

この利益敵視については、2つのレベルがあります。
1. 企業が当期利益を出すことそのものを問題視する
2. 企業が当期利益を株主に配当することを問題視する
  (当期利益を利益剰余金とし、再投資することは問題視しない)

1の立場をとる方は、そもそも感情的に「企業」「ビジネス」というものが嫌いな方々です。

「非営利」という言葉を大切にする人々はこの立場をとります。

しかし、最近、ソーシャル・ビジネスという言葉が普及するにつれ、
1の考えの方々は相対的に少なくなってきているような印象を受けます。
多くの人が、利益そのものが悪いのではなく、
「利益の最大化」ではない「健全な利益」が重要なのだと主張しています。

特に、低所得者層に融資を行うグラミン銀行(マイクロファイナンス)を設立した
功績で、ノーベル平和賞を受賞したムハンマド・ユヌス氏が、
ソーシャル・ビジネスの定義の一つとして、
「投資家は投資額のみを回収できる。投資の元本を超える配当は行われない」
を挙げ、上記の2の利益敵視の考え方が流行ってきています。

しかし、僕は、2つの理由から、このユヌスの考え方にも疑問を持っています。

1. なぜ配当ばかりを責めるのか?

会計の知識がある方ならご存知かと思いますが、
企業の利害関係者が受け取る「報酬」の中で、配当はそのひとつにすぎません。
主な利害関係者の受け取る報酬としては、以下のものが挙げられます。

・株主への報酬=配当金
・債権者への報酬=利子
・経営者・従業員への報酬=給与

利子や給与は費用として扱われるため、当期利益を算出する際には、
すでに差し引かれています。
例えば、アメリカの投資銀行の経営陣が莫大な報酬を受け取ることが、
メディアで取り沙汰されますが、
彼らが受け取っている給与は、当期利益には含まれません。
どれだけ「利益追求」行動の結果、売上を増やしたとしても、
給与報酬を上げれば、費用の額が大きくなり、利益にはなりません。

ユヌス氏の考え方に基づくと、ソーシャル・ビジネスにおいては、
債権者や経営陣、従業員は報酬が得られるのに、株主だけが報酬を
受け取れないという、非常に不公正な状況を生んでしまいます。

2. 株主もコストを負っている

ファイナンスの世界で、株主への配当金や債権者に対する利子の支払いを
「資本コスト」と呼びます。
これは、ものや情報を購入したり、従業員を雇ったりした場合にコストが発生
するように、調達したお金にもコストが発生するという考え方からです。

企業はコストを負って資金を調達し、それを投資して売上を得ています。
そして、その投資リターンと資本コストの差額が利益になるわけです。
(議論の単純化のため、その他のコストは無視しています)
この原則から考えると、ユヌス氏の発想は、株主を大きく苦しめます。
ソーシャル・ビジネスへの株主となる企業は、
資本コストを負って資金調達をしているにも関わらず、
投資からのリターンを得られず、その投資は純損失を生んでしまうからです。

グラミン銀行そのものは、低所得者層への融資からリターンを得ており、
資本コストという考え方を理解しているはずです。。
債権者の立場で投下した資本からリターンが得られるのであれば、
同様に株主に対してもリターンを認めるべきだと思います。

一方で、ユヌス氏のグラミン銀行は、多くの大企業からの投資を集めることができて
いるのも、また事実です。
しかし、中小企業が同じことをすることは2つの理由からかなりハードルが高いのです。

1つ目は流動資産の問題です。

大企業は手元に流動資産が多く、
ソーシャル・ビジネスへの投資に要した資本(株式発行や借入れ)への資本コストを、
その投資リターン以外から支払うことができます。
しかし、資金に余裕のない中小企業は、投資リターンが得られないと、資本コストの
支払いができなくなってしまい、資金繰りが回らなくなってしまいまうのです。

2つ目は投資目的の違いです。

大企業はソーシャル・ビジネスへの投資を一種のCSR活動、広義のブランディング、
マーケティング活動として位置付けることができます。
ソーシャル・ビジネスへの投資は、メディアなどが「無料で」宣伝してくれます。
さらに、企業イメージや製品イメージが向上し、販売促進にもつながります。
そのためCSR投資を一種のマーケティング予算として捉えることができます。

他方、中小企業は規模が小さいため、ソーシャル・ビジネスへの投資を、
本業として扱わざるをえません。
すなわち、本業としてこの投資から利益を得ないと、
会社の財務状況を悪化させてしまいます。

ユヌス氏は社会発展のために小さな企業をサポートする活動を行う一方で、
他の中小企業を市場から排除してしまう構図を生んでしまっています。

このように冒頭で紹介した、
「企業が当期利益を株主に配当することを問題視する」という考え方については、
アメリカでも賛否両論があります。
反対意見からは、
通常の(=利益分配型の)高評価の社会サービス企業が、
ソーシャル・ビジネスという分類から排除されてしまい、
彼らのモチベーションを下げてしまう、という意見も出ています。

ユヌス氏が、社会への(=事業への)再投資を願ったうえで上記のように定義を
した考え方には理解をします。
また、利益を上げにくいソーシャル・ビジネスの世界で、利益志向ではなく、
ミッション志向でないと、事業の継続が難しいということも理解できます。

一方で、利益は新たな事業を創造するための原資であり、
利益を「健全な利益」と「悪徳な利益」に分類することも容易ではありません。
ミッション志向で事業を行った結果、生じた利益を配当したとしても、
その企業はソーシャル・ビジネス(社会企業)と呼んでいいと考えます。

サステナビリティ(持続可能性)という言葉は、
20世紀の後半から頻繁に使われるようになりました。

特に、環境問題に対して、
「環境破壊を続けた発展は続くことができない」
という意味合いで語られることが多くあります。

しかし、サステナビリティという言葉の定義は非常に曖昧です。
何(What)をどのぐらい(How long)持続させられる可能性のことを言うのか、
明確に語られることは多くありません。

例えば、森林問題。
今のペースで森林伐採を続けていけば、
やがて森林はなくなってしまうと言われています。

森林を持続可能にするということをゴールと定めた場合、
いくつかの案が出てきます。

・木材資源の無駄使いを減らす
・木材建築をコンクリート建築に変える
・木材に環境税を欠け、需要を減らす
・森林を植える

さらに、こんなものも案としてはありえます。

・木材消費量を減らすため、世界の人口を削減する
・木材伐採を止めるため、木材関連企業を操業停止にする

しかし、これらの過激な案は、人権や経済、雇用などの観点からみて、
なかなか遂行できるものではありません。
すなわち、森林伐採には環境的な側面からだけでなく、
人間社会や経済の側面からも考える必要があるのです。

学問の世界でも、さまざまな側面を持つ持続可能性(サステイナビリティ)を
どのようにとらえるかで論争が起こっています。

環境を重視する立場は、以下のように捉えるべきだと主張します。

自然環境がまず存在し、その部分として人間社会があり、
さらにその部分として経済社会があるというフレームワークです。

確かに、人間社会は、より大きな生態系や地球環境、宇宙環境を基盤に成り立っています。
人間は自然という資源を「借りて」生きているという考え方も理解できます。

しかし、このように環境問題だけを最重要視する考え方は、
僕としてはあまり意味があることだとは思いません。
ゴールに向かって「人間の行動」を変えていこうとする場合、
人間の意思や思惑、望みや生活を無視したゴール設定は実行力を欠きます。
人々の賛同を得られず、活動の規模も大きくなりません。

サステイナビリティを実効性のある概念とするためには、
下記のような新しいフレームワークに共感を覚えます。

こちらは、自然環境、人間社会、経済社会の3つの持続可能性を同列に置き、
その3つが共存するポイントを最終的な持続可能性(サステイナビリティ)と呼ぼうという捉え方です。
環境学者からは、「人間中心主義の世界観だ」と言われてしまうかもしれませんが、
未来を構築していく実効力は、こちらの捉え方のほうが高いと考えています。

さらに、個人的には、人間社会と経済社会を分けて捉える考え方は、好きではありません。
先進国、発展途上国を問わず、人々の社会は、経済と密接に結びついているからです。
構造をシンプル化するため、このブログでは、
持続可能性を、自然環境と経済社会の2つのサステナビリティが両立する状態と
捉えていきます。

しかしながら、こうしても依然として、持続可能性という言葉は曖昧なままです。
持続可能性という言葉が具体的なゴールを持っていけるよう、
これから考察を深めていきたいと思います。

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最近、アントレプレナーシップ、起業家精神という言葉が脚光を浴びています。
特に、社会的起業という言葉も盛んに使われるようになりました。

なぜ社会的起業が必要だと言われるようになってきたのでしょうか。

僕が非常に共感する学者の一人に、
スティーブン・ゴールドスミス(Stephen Goldsmith)氏という方がいます。

彼はアメリカ・インディアナ州インディアナ市の前市長。
現在はニューヨーク市の副市長に在任中で、
ハーバード大学ケネディースクール(公共政策大学院)の教授でもあり、
アメリカの行政改革の中心人物です。

彼はブログの中で、
なぜ社会的起業が必要になるのかについて、こう語っています。

These social entrepreneurs share passion, a focus on outcomes and impact that leverages other resources, a sound business model, and high expectations for not only themselves but also their clients.

「社会的企業とは、情熱、資源を活用した結果と影響力、優れたビジネスモデル、自分自身
ではなく顧客に対する高い期待感を共有しているものと定義します。」

まず、この中で、僕が共感するのは、
「結果」にこだわる、「顧客への期待」をもつという点です。
大胆に言ってしまうと、慈善活動や慈善事業というものは、
提供者の満足のために実施してしまいがちです。

「○○が可哀そうだ。」「○○が不公平だ。」「○○もこうなるべきだ。」

こういう発想は、行動の動機としてはよいと思うのですが、
ともすると、行動していること自体が美談になってしまい、
結果に対するコミットメント、特に顧客視点での結果に対するコミットメントを
欠く傾向があります。

「顧客視点で、結果と影響力にこだわる」。
社会的起業にとって大切にしていきたい要素です。

彼は社会的起業の課題をこう位置付けます。

Early on, many of us involved in these fields mistakenly hoped that a good organization or idea would naturally grow to scale.

In most of the areas where social entrepreneurs are working, no markets exist. The individuals whom we are trying to serve do not have the money to buy needed services; thus someone else pays for them. Thus the start-up capital sufficient to prove a concept will not produce the broad growth needed for transformative change to scale.

「当初、わたしたの多くは、良い組織は自然に拡大すると思っていたが、それは誤りだっ
た。」「社会的起業が活動している分野には、市場が存在しないことが多い。サービス受給
者である個々人は、必要とするサービスを購入するだけのお金がなく、代わりに誰かが負
担しなくてはいけない。そうして、初期投資が十分でないため、組織を拡大するための変革
に必要な成長が果たせないのだ。」

また、その初期投資を提供する社会的投資家の動きも課題解決にはならないと
言及します。

Invariably, philanthropic and social investors rely on an exit strategy that looks to government as the sector that will eventually sustain an organization’s growth.

As a result, an idea’s ability to grow depends on both government and the existing web of providers, funders, and politicians who have a stake in the status quo.

「常に慈善投資家や社会的投資家は出口戦略として、政府にその投資先組織を成
長させていく役割を期待しています。」「結果として、社会的起業の成長能力は、政府や
既得権益者、政治家たちに依存してしまっているのです。」

Blaming government as the primary obstacle to progress, however, misses the mark. (…) Existing providers and their boards, staffs, directors, and sometimes clients lobby funders—whether private or public—to increase support of their efforts regardless of results.

In other words the passion that produced yesterday’s transformative innovation migrates over to sustaining the organization—which in turn precipitates an effort to raise barriers to entry for potential competitors.

「しかしながら、政府を主要な障害物ととらえて非難することは的を外しています。既
得権益者とは、経営陣、従業員、管理職層、ときには顧客を含み、彼らは結果に関わら
ず、既存組織をサポートするよう投資家たちに働きかけているのです。」「言いかえると、
過去の革新的な変革を産み出した情熱は、既存の組織を継続することに向かっていき、
かわりに、新たな参入者に対する障壁を高めることに注がれてしまうのです。」

こうして、彼は従来の社会的起業の取組が世の中に普及して行かないことを、
既得権益者(政府だけでなく)に頼らざるを得なかった構造に見出しました。

そこで、ゴールドスミス教授は、新しい概念として、
Civic Entrepreneurship=市民起業家精神 というものを提唱します。
これは、政府に頼るのではなく、市民の手で新たな行動を起こし、
市民の手でその組織を大きくしていこうという概念です。

古くから、わたしたちは、何かあるたびに政府に苦言を呈してきました。
日本の観光業が盛んでないと、観光庁を批判し、
日本の経済が発展しないのは、経済産業省の政策のせいにし、
日本の教育の責任を文部科学省の責任にしてきました。

この批判は、裏を返すと、それだけ政府に期待をしたいたのだと思います。
しかし、この21世紀は、いい意味で、政府に過剰な期待をするのを辞め、
市民一人一人で社会を望む方向へ変えていかなくてはいけない時代に
なっています。

何か問題や課題を認識したときに、
「なぜ政府はダメなのか?」と不満を言葉にする前に、
「わたしたちに何ができるのか?」を考えていくことこそが、
市民的起業家精神を育み、持続可能性のある社会を築いていく、
重要な一歩だと考えています。

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